幕末に築造された福岡藩の別館。
福岡城は海岸に接し、国内外に対する防備に不都合であったため、有事に備えて藩主をかくまうための館として築かれました。険阻な山峡で天然の要害をなす犬鳴谷が、藩の家老職で筑前勤王派のリーダー格の加藤司書の推挙によって選ばれました。元治元年(1864)に普請が始まりました。当時の藩は、勤王派と佐幕派の確執があり、慶応元年(1865)に加藤司書切腹(乙丑の獄)、御別館の築造は一時挫折したものの、後日藩主の休憩所である犬鳴御茶屋として慶応元年11月に完成。その後、明治17年に大雨風により倒壊。
現在、御別館は、表門と裏門跡、高石垣と庭園の池跡が残っています。門を入った左手に加藤司書顕彰碑が建っています。
犬鳴ダム周回道路の最奥から分岐する道を進むと高台にひっそりと、かつて建物があったであろう跡を見ることができます(管理上の理由から通常は坂道への門扉が施錠されているため車では敷地内に入ることができません)。
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宮若市中央公民館若宮分館に1/30の復元模型を展示しています。
福岡藩犬鳴御別館
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